昭和45年12月14日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受け言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 このまま頂いて有難い御理解ですね。誰んでも判り易く、これは信心の要諦、昨日から頂きますお徳ということに、身に徳を受けていくためには、このようないわゆる信心の心がけというものが必要だという事がわかりますね。そういう意味で、ここを読まして頂いてだけでも信心というものがどういうものかという事がわかります。只、自分の気分の良い時だけ拝むとか、参るとかと言ったような事ではね、身に徳を受ける修行はおぼつかないという事です。
 だから、いかに形が出来ても、いうなら大祓を覚えても拝む道を覚えても、どんな調子の良い事を言うておっても、ね、心に真がなければ神に嘘を言うも同然だという事です。ここを読めば、または聞けば分かる所ですからね。そこん所は除きましてから、ここの中からもう少しこの深さと言うかね、この六十八節の大事なとこと思われるところをま、ひとつ聞いて頂きたいと思う。小さい音でも神には聞こえるというところ。
 これはね前にありますように、神に嘘を言うようなものだと、真がなければ、神に嘘を言うようなものだとこう仰る。だから、ここでは小さい音という事は、ね、いわゆる真が求められておるという事です。本当な事が求められておるという事なんだ。ね、形が出来ても、言うなら大きな声で大祓を上げたり、ね、心経や大祓いをあげてもです、如何にしかも有難そうにしておってもです。真がなからなければ、神に嘘を言うも同然であるようにです、ね、なら神様に聞こえるという事。
神様に通うということはです、真でなからなければならんぞと、本当な事でなからなければならんぞという訳なんです。、小さい真心といったところなんですね。どんなに、例えば綺麗ごとに出来てもですね、例えて言うと御供えなら、御供えが沢山出来る。けれども、それがひとつの見栄であったり、しょうことないのものであったりしたら、いわゆる神には嘘を言うような御供えになるということではないでしょうか。
 それは、庭の落ち葉でもかんまんとおっしゃる、氏子に真心があればと、神に交うとこうおっしゃる。今日は賽銭を上げたいけれども、その御賽銭すらもないと言うて、どうとかしたい、やむにやまれんその心がです、ね、相済みませんけれどもと、木の葉でも良いと、真があれば神はそれを受けてくださるというのです。小さい音でも神には聞こえるということは、そういう事だと思う。ね、本当な事を求めておられるのだと。私共の隣の田中、椛目時代の。どこからかもうそれこそ見事な大根を頂いた。
 一家を挙げて熱心な信心を致しておりましたからね、もうそれが、これはもう立派な大根を頂いたから、それこそ早う善導寺に持って参れと言うてからその、それを御供えさせて頂いたときに、初代の荒巻先生がね、それをすぐ三宝に載せてから御供えになった。田中さん、今日の御供えは神様が生鯛として御受けくださったですよと言うておっしゃったということです。生大根ですから、なまだいはなまだい。
 けれどもね氏子の真心というものが、はあこれは美しい、これは見事早うさあ善導寺に持って参れと、そのそれがね小さい音でも神には聞こえるという事だと思う。必ず、御米でなからにゃならん、御金でなからにゃならん、御酒でなからにゃならんという事ではないことが分かりますよね。逸話にあの石川五右衛門の御話がありますねえ。石川五右衛門が死んだ。それで閻魔様の前に出らなければならない。
 ところが、前を通っておるお婆さんが沢山なその荷物を担いでね、いわば念仏を沢山詰めた袋を担いで行きよんなさる。五右衛門はもう小さい念仏ひとつである。こげなこつでは、もうこれは閻魔様の前に出てから申し訳がない、たったこんくらいのこつじゃあ地獄行きに違いないからというので、やっぱり死んだ先でも泥棒心が動いた。婆様をむごうだまくらかして。
 あんた年寄じゃけんでこのこまかつをいっちょ持ってゆかんのと言うてから、自分のこまかとをして、あんたがとをもってやろうというて、それをひっかろうて閻魔様の前に出たというのである。ところがその婆さんの担ろうちゃったつは、いわゆるしいら念仏じゃった。空念仏とう事を申しますが、朝から晩まで南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ちゃそうにゃ言いござったばってん、それが真がなかった。
 だから石川五右衛門は、こがしこ念仏持って行くなら極楽行きは間違いなかろうと思いよったけれども、これはしいら念仏じゃから地獄行きといわしゃった。というお話なんです。そうすると、そのお婆さんなたったほんなひとつじゃったばってん、これは中々重たい、やっぱもう一言しか言うとらんばってん、この南無阿弥陀仏は実のある、それじゃからお前は極楽行きと言わしゃったというお話なんです。
 石川五右衛門の一つ念仏と、ね、ギリギリの時、本当な心が本当な出た。その念仏一つで極楽に行ったとこういうのである。いかに有難そうに金光様、金光様ばっかりいくら言うておっても、ね、しいら金光様では神にはいわば通じない。さあそこでです、ね、私共がそんなら、真心さえあればと大根ばっかりお供えする訳いかん。ほれ真心さえあればと言うてから、途中から拾うて来た木の葉ばあぐる訳にはいかん。
 木の葉と言や、愛子からこんな物を送ってきた。御本部の御霊地の庭に散っておった木の葉に「親先生、有難うございます」と裏に書いてある。だから、木の葉一枚でもです、愛子の思いですから、私はこれをやはり良いお供え、有難いお供えだと思うんです。ですから、皆さん木の葉一枚でもいいです。これに親先生有難うございますの中に、もう何か一杯の有難うございますが感じられる。
 だから、そこでですね、そこで私はその小さい音でも、小さいものでもね、本当に真心、真が交うようなおかげを。例えて言うなら、ここでは大きな声やら節をつけたりという風に、大祓や心経をあげるときにとおっしゃるが、なら心の中でブツブツブツブツ言うておるよりもです、一生懸命大祓を心の底から大祓いを奏上する。ね、それが、私はね、真心一杯であったら愈々有難い事だと思う。
 周囲でその大祓の声を聞いとっただけでも有難い。私の妹の婿になります、池尻が長い間病気で休んでおりましたが、二階に休んでおりました。それで下で、日に何回とはなしに、それこそ心の底から大祓を一生懸命上げる。しかも、一巻二巻じゃあない。十巻二十巻も、もう一生懸命にあげる。二階でその妹婿が言うておりましたそうです、兄さんのあの大祓を聞いておる間は楽だち言う。と言う様なですね。
 ですから私はここでは大きな声をしてはならんとか、沢山のお供えをしちゃならんという事では決してないのですよ。たくさんのものが、それに真が一杯つまっとりゃ、それこそが世の光である。世の光になるような、ね、周囲の人が見てから、有り難うなるような、いや周囲の人が助かるような私はおかげを頂いていく為に、小さい音でも神には聞こえるとおっしゃる。
 だから本当な、本当なものならば、神様にかようというところをです、今日は頂いて、そのためにです、ね、朝参りをするに、雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ、というここんところが、大事になってくるわけなんです。雨が降る、風が吹くだけじゃありますまい。朝参りを思い立たして頂いた。やっぱり夕べが寝とらんなら今日は眠か。
 もう眠か事は神様は知ちゃるけんといや、それまで。知ってあるどころじゃない。夕べ寝むっとらんことはしっとる。というてそれを疎かにしたんでは、身に付く徳ということになってこない。雨が降るから風が吹くからというのは、厳しかろう、ね、きつかろうけれども、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ、眠たかろう、けれどもその眠いながらでもその辛抱こそが身に徳を受ける修行なのだと。
 その身に徳を受ける修行をさせて頂かないとです、小さい音でも神には聞こえるという、本当な事が生まれてこないのです。二十何年前、福岡の共励会、私が出向いとった時代でした。一晩中お話をしてからまぁだ一番電車で帰ってくるのですね。電車にま、ちょっと時間があったから、ちょっと横になろうというてから休ませて頂いた。そしたら、もうあの一番電車の通る音がゴーッとあそこは聞こえますもんね。
 あすこ二階に寝とりますと、あ、もう一番電車が行ったばいのと、ところが眠とうてねむとうて、その目が開かん程眠たいわけです。そしたらね、三代金光様のお言葉でね「神様が見ておいででございます」といお言葉を頂いた。もうそれこそ鼓膜が破れるようなお声だった。あんたが眠いということは神様が知ってござると、さあそれが辛抱だと言われて、もうそれこそ一辺に目が覚めてから、起きて帰った事がございます。
 神様は見通しなのだ、神様が聞き通しなのだ、本当の事であるならば。同時にです、私共只今修行中という時にです、成る程眠くもあろうきつうもあろう、成る程雨が降りゃ、風が吹きゃしるしゅうもあろうけれども、ね、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。私はここんところがね、大事だと思う。三代金光様が、御年わずか十四才でお父様の跡を受けになられて御結界奉仕をなさった。
 そして七十年間それはね、初めの間は辛うてよう泣いたと仰せられた。そうだろうなぁ、朝の四時から夕方の四時まで座っとらんなん、まあだ遊びたい盛りだ。友達が遊びに来ると、オーッと言うてから、御結界を立ち上がりよんなさったという事である。表で「攝ちゃん遊ぼう」というてその子供たちの声を聞かれると、御結界を思わず知らず立ち上がりよんなさった。側に偉い先生方がちゃんとついておられて、「はぁ金光様」と言うてその、それを止められた。
 そういう時に、本当に泣く泣く御辛抱になっただろうと、こう。そこで、金光様のお言葉としてですたい「神信心には辛抱する事が一番大切でございます」と言う様なお言葉が出来てた、生まれた訳なんです。ご自分が身を持って体験なさったんだ。神信心には、ね、これは、私は何の稽古、何のことだって同じことが言えると思うけれども、とりわけ神信心に辛抱の出来ない人は徳は受けられません。ね、その辛抱こそが身に徳を受ける修行じゃと。その身に徳を受ける修行をさせて頂くからこそです、ね。
 いうならば小さい音ではない大きな音がそのまま神様に交うように、ね、大きな御用が、そのまま神様のお喜びの心に触れていくようなおかげが受けられるのです。昨夜十三日会の後に企画の方たちが残って、いろいろと、今度丸少会館建設のことについての話し合いがあっとりましたから、わざわざ昨日は、福岡の古屋さんも夫婦で参加しておられました。昨日の十三日会に。で、
 あと残ってから、お食事の時でしたか、先生、あの先日から、裸の会という会が、福岡の教会の古い信者さんがたの中にあるんです。博多の裸の会の時にお話が出て先生に是非お願いしたいということ言うことがありますち。何事でしょうかちゅうたら、あちら佐賀の有田の柿右衛門のお家と親戚に当たるですよね、古谷さんのお宅は。いわゆるさかいだ柿右衛門ですよね、今十三代の。
 そこんところに先日から仁左衛門、片岡仁左衛門という・・名優がおります。もうこの人は柿右衛門を演ずることによっては、東西第一人じゃと言われる、いわば柿右衛門を演じてはこの人に右に出るもんはおらんという、いわば肩章があるわけですね。仁左衛門の柿右衛門が素晴らしい。ですからそういう関係で柿右衛門を演ずるたんびんにやはりこちらにその、相談があるわけです。柿右衛門に、本当のところは。
 あら、忠臣蔵やなんかやるときには、必ず例えばあの、泉岳寺にお参りに行ってから、御霊様のお許しを頂く中、ね、佐倉惣五郎を出す時には、わざわざ佐倉惣五郎の、あのいわば、おったあそこなんとかというところまで行って、佐倉惣五郎の神社にそのことの挨拶がある。ま役者の世界、なかなか・・?なんですね。そういうようなことが、あって、先日からその、仁左衛門がね、色紙に絵を書いて送ってきた。
 それがどういう意味かわからんとちゅうわけなんですよね。それが、どういう絵が書いてあるかちゅうとね、ロウソクが一本描いてある。こうロウソクがこうやって、赤い光がついておる、そのロウソクの絵が一本書いてあるのを頂いて、これは誰にか餐をしてもらわにゃきゃ分からんち、その言われたそうです。そいでそんならひとつ合楽の先生に一言これ何か、この意味があるだろう、御理解でもいいから、一筆書いて頂こう、ていったら是非お願いしてくれということになって。
だからお願いに来るちゅうがいいでしょうか。そばってんあなたそれ、ね、相手は天下の名優と言われる人が描いた絵に、私がごたるへたくそな字書いたらやっぱ色紙が死んでしまいはしませんか。いいえ、死ぬるとか生きるじゃない、もう問題はね、そのローソクの絵の意味が分かりたいんだとこう言うのです。まあだ久保山先生と私とが知りおうて間もない頃でした。一緒に善導寺の教会にお参りさせて頂いて、一緒に御祈念さして頂いて、御祈念した後に、ね、あの久保山先生の事についてこんな事を頂いた。
 「あなたはね、身をちじめて周囲を明るうしていくという御用をさしてもらわんならんよ」自分の身を、自分の身を縮めてでも、周囲を明るくしていくというおかげを受けなければならんというときに、その裸ローソクを、ドンドン燃えて縮まっていく所を頂いた。だから、私はもしそれを色紙を持って見えたら、その事を描こうと私は思うた。自分の周囲を明るうすると、自分の周囲をあかるうするということはです。
 只人が助かりさえすれば、人の難儀が助かりさえすればと、いくら口にむごう説教した所で言うた所でです、ね、それで人に通ずる筈がない。昨日私は十三日会の時に、秋永先生と若先生とにその事を話しました。今の合楽で言われておるという事がです、ね、例えばならここの御建築ができた時に「はあ大坪さん、ふが良かったの」と言うた先生がおんなさったが、果たしてふが良いからこの建築が出来たのであろうか。果たしてふが良かったから幹三郎があのような奇跡的なおかげが頂いたのであろうか。
 ね、周囲の人は、ふが良かったとま、言うなら言うても良いけれども、これが神様の真実おかげであることを、わからせるという事は、大変な事だなと言うて話した事でした。昨日。その大変な事をです、私共は大変なことに取組んでです、ね、竹内先生の奥さんが昨日発表されました。昨日はあの沢山の人がです、もう本当に、今度の幹三郎の事に、そんなに皆さんが、思いをかけておって下さったかと、いう思われる程しの、感激の体験発表がありました。
 その中に竹内先生がその事を言われる最後にです、こういう素晴らしい有難い事をです、教団の信心、ね、現在の金光教全部の信心に、こういうおかげが頂けるんだ。金光様の信心はという事を、分かってもらえるおかげを頂きたいと、いう意味の事を発表されましたですね。いわゆる、曲がり角という御理解がありましたでしょうが。こちらの角、この通りはいうならばま、大した人達じゃないとが住んでおる町。
 鍵の手になっておるこちらの曲がり角の、を曲がってこう行ったら、もうそこは、分限者町だと言ったようなお知らせを頂いてです、ね、こういう道の上の曲がり角だ曲がり角だといくらいうておったって駄目だと。ほんとにここに分限者街に住んでおる人たちが、どうしてあのように分限者になられたかという事を、尋ね探らなければ本当な事じゃないのだというような御理解を昨日頂きましたでしょう。
 今、だから、私はその竹内先生のお話を聞かせて頂いて思う、成る程、教団もさる事ながら、ね、この合楽の信心の、この生き方です。言うならば教祖金光大神の本当の生き方なんです。実意丁寧神信心、その生き方がね、全世界の人間に理解してもらえれる時こそ、世界真の平和が頂けるんだという事。世界の繁栄という事、ね、人類の繁栄という事をです、ね、こういう生き方にならなければ本当の繁栄にはならんのだと。
 只知恵やら力だけで繁栄しておるのは、それこそ栄枯盛衰、世の習いであって、また枯れなければならん、また衰微していかなければならないことになるのだ。金光大神の教えられた事を、本当に私共が身をもって行じさせて頂いて、ね、合楽で頂いておるようなおかげをです、ね、ま、いうならば沢山の教会でもこういう生き方になられるようになられたら、教団の一大御比礼になる事であろうという事でございました。
 ですから、これを本当に分かってもらうことは大変なことだなーととゆう事は大変なことだと。大坪さん、ふが良かったの、こげな立派な御広前が出来てと、例えば言われるような先生方が居られる限りです、金光教の信心は生まれん。大坪さんの信心のどこからあれが生まれたかと私は追求、思うてみられるような人たちが出来てこなければ駄目だ。幹三郎の今度のおかげがです。
 ちょいと幹ちゃんふが良かったのと言う様な考え方の事では、だからそれをおかげをおかげと分られる事なのですから、大変な事だなと私はま申しました。さあそこでですそんならそんな大変な事だからと言うて取組まん訳にいかん。それこそ千里の道も一歩からでありますから、ね、まず自分自身の心の中に光を頂かなにゃ。信は光なんである。ね、それにはです、なら人の世の中のいわばね、教祖様のお言葉でありますように、人が助かる事さえ出来さえすればとこういう。
 なら全教の信者、教師を問わず、それこそいつも口にしておる、人が助かる事さえ出来ればと。いくらそういうておっても、この貧乏町に住んどってからどうして人が助かるか。曲がり角なら曲がり角で本当に向こうまで行き詰まってみて、そして鍵の手になった所にこうゆう分限者町があるんなら、そういう分限者町に住むには、どううおかげを信心をしたら良いかという事を探求しない限り、何時まで経っても曲がり角だ曲がり角だと何十年言うとらなきゃならんのだ。
 ね、それにはね、私共が力を頂かなければならない、お徳も受けなければならん。それにはね、雨が降るから風が吹くから、きついから眠いからと言うておったんではです、そこを泣く泣くでも辛抱する事によって、身に徳を受ける修行が頂ける。昨日の何事かでしたか、裏でいろいろお話させていただいて、二代、信心の継承という事についてから、あそこ五、六人で炬燵の間で話しながらです。
 丁度、茂さんもおりましたから「あんたん所のお父さん位、本当に見事に信心を子供達に渡した人はなかよ」ちゅうて話した事でした。それこそ、身を縮めてからの光があるからなんですよ。いわゆる十年前、いわゆる今から言うと二十年前の、に頂いておった通りの事が、いわば成されたという事なんだ。そこにはです、身を縮めるとか、身を削るという程しのです、私は修行なくして光になることはないと思う。
 人が助かる事さえ出来ればほかに、なら人が助かる為には自分自身がまず、まず身を削り心を削って自分自身が助からなければ。ね、いわゆる合楽自体が助からなければ。そこにです、私は本当なことが出てくる。本当なことが出てくる。小さい音でも聞こえると、その小さい音がです、ね、世界中に響き渡る程しのです、ね、私はおかげにもして行かんならんという願いをお互いが持たしてもらい。
 世の中の大きな一つの光にならせて頂こうという願いが持たれなければならんのじゃないかと思うのであります。小さい音でも神には聞こえるという事は、それこそ些細なひとつ念仏でもいい。ね、それは木の葉一枚にでもいい、氏子の真さえあれば神に通ずるとおっしゃるのですから。ね、その私は真を一つの、小さい真を基盤にして、その小さい真が段々大きゅう育っていくおかげ。
 しかも世のお役に立たして頂く事の出来る程しのおかげ。それにはです、只、人が助かることさえ出来さえできばをいくら連発しておっても、それは空念仏的のようなことであってです、口を開けば人が助かることさえ出来ればと言うておって、人が助からんならんなら、それは空念仏ですよね。けれども口には出さんでも心の底にです、神様、私が修行致しますから、私が身を削りますから、ね。
 どうぞ一人でも自分の周囲に本当に助かる人達が出来る様に、という祈りを持つならば神様はその一つの願いでも聞いて下さる。それには、ね、その辛抱こそ身に徳を受ける修行という修行がなされてからでなければです、そういう力強い願いというかね、また実現するという事。合楽でどのように素晴らしい事を言うておっても、中身が無い。ね、いうならば見かけだけは。
 だけれども天ぷらではいけないわけなんです。それが矢張り本当なものが本当なものとして育っていく。本当にいわば実力を得ていくと言うところからです、んならこういう素晴らしい有り難い事を、それこそスピーカーを通してです、ね、沢山の人に呼びかけたい。んならその呼びかけたところでです、ね、真がなかったらね、人には聞こえても神様には聞こえんという事。
 それが本当の身を削っての例えば修行をさせて頂いておる人がね、一人でも良い二人でも良い。自分の周囲に明るい、いわば光を投げれる事が出来れる、潤う事が出来れる人が助かる事ならばです、私の信心修行を厭わないと言う様な、所謂眠いけれども、辛いけれども雨が降るけれども、風が吹くけれども、そこの辛抱をし抜かせて頂く程しの力を得て、徳を受けていって初めて人が助かるということになって来る。
 世の御役に立つと言うても、いかにいくら言うたところで、空念仏では世の中は明るくもならなければ、助かりもせん。世の御役に立たせて頂く為には、やっぱりその力が要る。光が要る。それには、まず信の心をまず養わなければいけん、信とは信ずる心である。それがです、只自分の都合のよか時だけ参るくらいな信心で、その信の力が頂ける筈がないですからね。
   どうぞ。